逃げる者、追う者8
家を出て、どの道を行けばいいのかわからなくなりました。
もう夜更け。外は真っ暗でした。
意識が陶然としていて、判断がつきません。
とにかく、母と一緒に歩きました。
「お母さん、いなかったね。
おばあちゃんは、何も知らなかったから、連れ出す必要があったんだろうけど。」
お母さんを、逃がしたのかな、カイくんは。
「誠意がないわよ。」
母が言いました。
「あれは演技ね。落ち込んでて、悲しいですっていう演技よ。」
「演技かなあ。演技できる人じゃないと思うけど。」
カイくん、そんな器用な人間じゃなかったと思うけど。
嘘つけない、はず。だって正直に話してくれたこと、いっぱいある。
「人はね、その場に応じて、演技するものなのよ。」
母に諭されました。
道がやっぱりわかりません。
歩いたことのないような道に出てしまいました。
それでも、歩き続けました。
「それからね、あき、彼に触るのやめなさい。
なんでお母さんの前で触るのよ。」
思わぬ非難でした。
「わかってるよ、今までのクセなの。」
ずっと触れてたから。
いとおしくて。いつもいつも。三年間。
「彼は嫌がってるのよ。わからないの?
嫌がってるって事は、痴漢よ。」
ぐっさりきました。
「わかった、もう触らない。
なんでそんなに怒られなきゃいけないのよ。」
「お母さんは、彼、ろくな人間じゃないと思うわ。
結婚できたとしても、幸せにはならないわよ。」
「なんでなにもわかってないのに、そんなこと言うの?
彼の人格がわかった?
今日の彼は演技してたんでしょう。お母さんに言わせれば。
言ったでしょう、3年間を過ごしたのは私だって。」
「そうかもしれないけど。
でも、彼はもうあきの事好きじゃないわよ。
駅とか家まで会いに行ったりしたら、だめよ。
ストーカーになるわよ。
あきが捕まったらどうするの。」
彼は私の事を愛してない。と、拒否の態度にのせて示そうとしている。
でも、本当はまだ好きなのかも。
だって、あの涙。彼から過去に受けた愛は。
期待してしまう私の心は醜悪なんだろうか、汚いんだろうか。
「捕まえたらいいじゃない。
そんなのどうだっていい。」
「よくない。
絶対だめよ、わかった?」
興奮した母の声。
私は両腕を広げて、場を押さえました。
「わかった、わかったから。
お母さんが味方だってのはわかった。
家にも駅にも行かないから。」
そんなに興奮しないでよ。
冷静だと思ってた母なのに。
母も、母だったってことか。
しばらく歩いて、帰り道のバス停がわかりました。
時計を見ると、着いてから約1時間たっていました。
短かったなあ、と。もっともっと話すつもりだった。
「あの日」は2時間。
足りないよ。
バスが来るまで、待っていました。
最終のバスでした。
と、母が。
「あれ、そうじゃない?」
目の前を通り過ぎていく見覚えのある車。
一瞬だけ、運転席の後姿が見えました。
カイくんだ。
お母さんとおばあちゃんを迎えに行くのでしょう。
走り去る車。
私たちが、見えたんでしょうか。
複雑に、いろんなことが頭の中を駆け巡りました。
逃げられた、とか。
本当に、おばあちゃん、具合悪くなっちゃったんだろうか、とか。
いちばんは、カイくんの精神状態。
だいじょうぶなのかな。
あれがほんとに演技で、かすったとも感じていないのかな。
何もわからない。
カイくん、カイくんが遠のいていくよ。
夜中になっていたので、母は私のアパートに泊まることにしました。
家の状況は、あまりよくありません。
カイくんが来なくなってから、私の精神状態をそのまま投影していました。
はっきり言って、汚い。
「あきらしくないわねー」
と言いながら、母がキッチンを磨いていました。
「いいよ、自分でやるから。
置いといて。
夜中だよ。」
そう言う私を無視して、掃除を続ける母。
私も見ているだけというわけにはいかず、部屋の片付け。
熱心に続ける母を見て、こうやって、落ち着きを取り戻すんだな、と考えていました。
動いていないと、暗い考えにのまれてしまうからです。
床についてすぐ、母は寝入ってしまいました。
私はしばらく眠ることができず、アルバムを見ていました。
美しい思い出は美しいまま。
これがあったら、生きていけるだろうか。
翌朝。
私は午後から仕事でした。
家を出るまでしばらく時間がありました。
母と、話しました。
「電話もメールも、しばらくしない。
待ってみることにする。」
母に言いました。
少なくとも、カイくんに言い置いていった日にちまでは。
何もなかったら、そこからいつまで待てるだろうか。
それからは、あとで考える。
「お父さんねえ、法律相談するって。
どうする? あき。」
私はため息をつきました。
「法律のことは任せる。
私は調査しなきゃいけないってことは、前提だったと思ってたし。
被害を受けたのは、お父さんとお母さんが本人だから。」
「お父さん、ほっといたら暴走するわよ。」
笑いながら母が言います。
「正常なアタマじゃないしねー。
信じてもらえないんじゃない?
こんな話。」
まだ父は入院患者の立場です。
まったく誰に似たんだか。
「止められるのは、あきだからね。」
「悲恋の物語で終わらせようとしてんのにね。
ロミオアンドジュリエットみたいな。
なんで法律問題にするかなあ。」
少し終わり方はちがうけれど。死んじゃうわけにはいかないけれど。
恋してはいけない相手に恋して、相手の幸せを願う美しい純愛。
でもそれだけで終わるわけない。
これは現実。
「言っとくけど、まだ終わってないからね。
お父さんに会ってもらってない。
法律うんぬんは、それからでいいんじゃない?」
「そうね。」
「彼ね、たぶん、こういう話し合いとか、慣れてないと思う。
私はさ、家出てから、なにか事があったら、とことん話すっていう機会がいっぱいあったけどさ。
夜明けまで話し合って、堂々巡りさせて、それでも終わらなかったら、また次の日も。 それでやっと分かり合えるっていう。
彼は、あんまりそういう経験ないんじゃないかな。
自分の思いを言葉にする能力を、伸ばせてないんじゃないかな。」
心を開いて話すということは、エネルギーが要る。真実を語るのも。
でも、そうしないと解決しないことがある。そうすることで、本来なら得られなかった良い結果を、手にすることができる。
いままでの経験で、それがわかりました。
3年間、行動でカイくんにそれを示してきたつもりです。結婚に関する私の思いを話したときのこともそう。
振り返ってみれば、私も、親とは心を開いて話していなかったかもしれません。
反省してます。
カイくんにそれを求めるのは理不尽なのでしょうか。
何か、何か一つでもいい。語れたら。
- [2008/08/22 01:07]
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