逃げる者、追う者7
どきどきしながら待っていると、出てきたのはカイくんでした。
半パンの上下スポーツウェア。
緊張した表情でした。
私も緊張していて、第一声、何を言ったのかよく覚えていません。
「お母さんは?」
と私が聞きました。
するとカイくんは、
「おばあちゃんの、具合が悪くて…ふたりとも、病院に行ってるんです。
俺も、このあと、迎えに、行かないといけないんです。」
カイくんは私というよりも母に話していました。
そのかすれた声。小さな声。
たどたどしさ。
疲れではなく、おびえているか緊張している、と私は思いました。
あ、だめだこりゃ。
壊れるなんてできない。
カイくん、小心者だからなー。
私も同じくだけど。
私がこの場で壊れてみせたら、カイくんつぶれちゃう。
そう思いました。
爆弾投下はさっそく理性で封じました。
「入らせてもらうわね。」
「カイくん、いい?」
母と一緒に玄関の中へ入りました。
その玄関口。
わんこがかけおりてきました。
はじめて見るわんこ。
「あ、飼ったんだ。」
あくまでなごやかにいこう、と思いました。
カイくんは玄関の上がったところの奥のほうに座りました。
自分の部屋の前です。
かつて私が寝かせてもらった部屋。
カイくんと内緒のことをした部屋。
どうやら、上がらせてもらう事はできないようなので、母と私は上がり口に腰掛けることになりました。
わんこが、私に寄ってきました。
ふんふん、とにおいをかいで、どうやらお知り合いにしてもらえたようです。
飼う予定、とは前から聞いていました。
マルチーズはあきらめたそうです。
番犬になる、大きい犬がいい、と。
名前はライにする、とカイくんが楽しそうに話してくれていました。
雷の、ライ。
―じゃあ、かみなりさんだ。かみなりくん。あ、サンダーくんとも言う。
おどけた私がそう言うと、
―ちがうってば、ライだよ。なんだそれ。かっこよくないよー。
カイくんが笑ってました。
私は飼ったということも聞いていませんでした。
実際に飼い始めたのは、「あの日」のあとということです。
「名前は?」
「ライ。」
「あ、やっぱりか。かみなりさんだ。」
ふっと、カイくんが笑いました。
一週間ぶりに見る笑み。
ちょっと、空気が和らいだかな。
「はじめましてー、ライ。
大きいねー。何ヶ月?」
カイくんに聞きました。
「4ヶ月。」
「でっかいなあ。」
わんこをなでなで。
あっと、忘れてた。
「こちら、お母さんのなつこさん。」
母を指して紹介。
すると母。
「お母さん、いらっしゃらないのね。
また、出直しましょうか?」
それにはカイくんは答えませんでした。
かわりに私がおばあちゃんの事を聞きました。
「体調が悪くて。俺もすぐに迎えに行かないといけないんです。」
また、同じ事を言いました。
どうやら、早くのがれたいみたい。
さっそく本題でした。
「この子がいろいろ良くしてもらったみたいね。
病気のときにもお世話になったらしいわね。
ありがとう。」
そう言う母に合わせて、私も頭を下げました。
カイくんは、「いえ」と言ったのか言わなかったのか。
うつむいて、あまり反応がありませんでした。
話は「あの日」のことへ。
私は大人気ない、と思いながらも、ライを撫で回して、緊張をほぐしていました。
聞いているフリの聞きたくない話。
子どもの私が、拒否していました。
「本当は、結婚する気はなかったんじゃない?」
母がいちばん疑っている部分です。
カイくんは、視線を落としながらも、言いました。
「本気で、あきちゃんと結婚しようと思ってました。
本気です。」
しっかりと、私の耳に届きました。
カイくんが、指で目頭を押さえました。
あ、涙。
これで、私は泣けないな。なぜかそう思いました。私まで泣いたら…。
母は、カイくんを見据えていました。
「じゃあ、こうなる前に、相談できたでしょう。」
合間に、ライが吠えます。
カイくんが、「ライっ」と大きな声でしかりつけました。
印象的でした。
「それは私が止めたの。
カイくんは、何度もうちに来るって言ってたんだけど。
旅行のときも、来るって行ったんだけど、私が止めたの。
一緒に住んでたときも、お父さん、あんな様子だったでしょう。
私が、ちゃんと話せばよかった。でも、言えなかった。」
カイくんが答える前に私が母に向かって言いました。
私が悪いの。
カイくんは、またうつむいてしまいました。
「じゃあ、経過のこと、話してもらえる?」
カイくんは答えません。
自分の部屋のドアに背中をもたせ掛けて、立てたひざに腕を置いていました。
私はカイくんの手首に自分の手をかけました。
「しんどいの?
また別の日にする?」
カイくんは答えません。
表情が、消えていました。
肩や、頭をなでました。
なんの反応もありませんでした。
「経過だったら、私が話せるけど。」
母に向かって言いました。
が、母は、カイくんを見つめたままでした。
「あなたがしたことは、とても重大なことなのよ。
それを何も説明してもらえないなんて。」
私はカイくんの腕に触れて、覗き込むようにしました。
「カイくんの口から話してもらうことが大切なの。
私、カイくんのこと好きだよ。
ずっと好きだから。
頑張って、話して。」
母の責めを受けているカイくんがかわいそうでした。
そして守ってあげたいと思いました。
カイくん個人が責められる問題じゃない。
そして何よりも、大人の話し合いが望みだと思いました。
けれど、カイくんはそれきり一言もしゃべらなくなりました。
母が、方向を変えていろいろと質問しますが、カイくんはうつむいたまま。
悲しいでもなく、不機嫌でもなく、落ちこんだようにも見える、無表情で。
「これ、自宅の番号書いてあるから。
お母さんによろしく言ってくださいね。
必ず、ここに連絡くださいって、伝えてもらえる?
お願いしますね。」
母が名刺を取り出して、カイくんの前に差し出しました。
カイくんは受け取りません。
母はカイくんの目の前の床に名刺を置きました。
ちょろちょろしていたライが、前足で踏んでしまいました。
カイくんが、ライをどかして押さえます。
無言で。
いちおうは、というのか、良心があると見て取れました。
礼儀は忘れてないもんね、カイくんだもの。
「きっと、連絡くれるように、言ってくださいね。」
母が、立ち上がりました。
「お母さん、帰るわよ、あき。」
それに私はうん、と答えました。
私はカイくんの腕に触れたまま。
カイくんを見つめていました。
母は、玄関のドアを開けて出て行ってしまいました。
帰り道、わかるだろうか、そんなことを思いながらそこにとどまりました。
カイくんと二人きり。
しばらくの沈黙の後。
「明けでしょ。
ひげ伸びてる。」
カイくんのほほに触りました。
ざりざりの、おなじみの感触。懐かしい感触。
カイくんは避けもしませんでした。
無反応、という拒否です。
一瞬、視線が合ったかな、と。
気のせいかな。
ライが、また母の名刺に興味を示しています。
私は床の名刺を取り上げました。
「んー
なんだこれ。こんなん持ってたんだあ。」
私の知らない肩書きが書かれていました。
「ライ、これ大事、だからね。
こっちにおいとくね。」
子どもに話しかけるようにライに話しかけていました。
「ロロ、どこ行ったの?」
唐突でしたが。聞きたかったことなので。
カイくんの愛車につけた名前です。
「私のCDが乗ってるんだけど。」
デートのとき、ごくたまに音楽をかけていました。
それが、カイくんの車に乗せたままでした。
ほんとうは、CDなんて、どうでも良かったんです。
カイくんの、反応がほしかっただけです。
「かえすよ。」
それだけ、言ってもらえました。
その反応に気をよくした私。
子どもの、おばかなあきが出てきました。
「アルバム、持って来たの。
見てくれる?」
床に、置きました。
こないだと同じ反応とわかっていながらも。
またも、ライが前足と口でいじろうとします。
カイくんが、アルバムをどかしました。
私は一冊を開きました。
「へへ、カイくんが見てくれないから、ライに見せちゃお。
ほら、ライ、カイくんだよお。
わかる? わかんないか。」
ライがふんふんとアルバムをかぎました。
カイくんは、下を見たまま。
その視線の先に、アルバムを差し出しました。
「知ってる?
これ。
言ったことあったかな。
この時にね、初めてカイくんのこと好きって、思ったの。」
昼間のイルミネーションを見に行ったとき。
不意打ちでカイくんを写真に撮ったら、カイくんは笑いながら私の首に手をかけてきた―。
「ヘンだねー、首絞められて、好き、なんて。」
異様な空気。
一人は無反応で床を見つめているのに、私は、笑顔で浮かされたようにしゃべっています。
わかっていながら、止められませんでした。
壊れるって、決めてきたからでしょうか。
「これがねー、旅行のとき。
水族館もあるよ。」
ぱらぱらとアルバムをめくって、虚しい行為。
カイくんの顔を、下から覗き込みました。
ほとんど床に寝るようにして。
カイくんの目は、一点を見つめていました。
どこかを。
何を見ていたんでしょうか。
信念、真実、自分自身、守るべき人たちのこと。
私にはわかりません。
私でないことは確かでした。
母が、玄関を開けて入ってきました。
「帰ってなかったんだ。」
「帰るよ、あき。」
私はカイくんの頭をひとなでしました。
「早く元気になって。
そして話して。
覚えといて、つぎ、水曜日の夜と、木曜日、時間あるから。木曜は私も休み。
覚えといてね。水曜の夜と木曜。
じゃあね、またね、カイくん。」
もちろん、カイくんから返事はありませんでした。
- [2008/08/21 01:01]
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