音信不通だった彼に会えた、母にも打ち明けた1 


 前回空振りに終わった待ち伏せ。
 今回も、そうだろう、と。
 駅の改札口で、待っていました。
 だいたいこの時間と見当をつけて。
 流れていく人の波。ちがう、あの人もちがう。
 何時間たったのか。

 カイくんだとわかった。
 背格好と、歩き方で。三年間、見つめ続けてきたあの姿。
 顔が確認できる前に、私は動き出していました。
 改札を通る彼。
 ななめ前方から近づく私。
 心臓が、ぎゅうぎゅうと締め付けられました。息もできないくらい。
 彼の真正面から、さらに近づきました。
 数メートルのところまできて、やっと気づいてもらえました。
 立ち止まる彼。
 彼が第一声、何を言ったのか覚えていません。
 「わ、びっくりした」だったか、「どうしたの、こんなところで」だったか。
 私は、「カイくん」と言うのが精一杯でした。
 彼の手をつかみました。
 「あの日」力の限りに私が握って、カイくんが振りほどいた手。
 二度と、はなしたくない手。
 彼を見つめました。
 言葉が出てきません。
 彼も、しばらく見つめ返していました。感情があるのかないのかわからない表情で。
 よろこびでも、悲しみでも、怒りでもなく。
 うつむいてしまった私。
 体が震えて、立っていられませんでした。
 改札口、人の流れがあるのはわかっていました。
 けれど、カイくんの手を握ったまま、地面にひざをついてしまいました。
 涙があふれてきました。

「立って」

 優しい声。私の手をひっぱりあげるカイくん。
 促されて、立ち上がりました。
 しっかりしろ、会えたよ、会えたんだから、と自分を励ましました。
 歩き出すカイくん。

「ごはんでも、食べようか。」

 私は彼の手を力を込めて握りました。
 はなしたら、「あの日」のようにまた置いて行かれる。
 恐怖心でいっぱいでした。
 誘導されて、駅出口へ。

「ごはん食べさせて。いい?」

「うん」

 としか言えない私。

「何食べたい?」

 なにものどを通らない気がしました。

「なんでもいい。」

 自分の声がかすれ、震えているのがわかりました。
 ずっと、カイくんの顔を見ていました。
 ずっとずっと、この三ヶ月、目にすることのなかったカイくんの顔。
 自分の視界にあるのが当たり前だった。親しみと、愛着と、安心感が具現化したもの。
 愛して愛してやまない、その人のかたち。

「ずっと待ってた? 何時くらいから?」

 付き合っていたデートのときのような明るさはないけれど、いつものカイくんの声でした。私の悲しみや感激や動揺とは百倍も差があるような。

「11時…くらいかな。」

「今日は? 休み?」

「うん」

 先日、一人で見た駅の外の風景。
 同じ景色のなかを、カイくんと手をつないで歩きました。
 明らかに、カイくんが、私と手をつないでいました。
 私が一方的に握るのではなく。

「そんなに、力入れんなって。
 逃げないから、俺。」

 少し、力を緩めました。
 でも、不安が胸を渦巻いていました。
 一軒目、順番待ちが多くてだめでした。
 まったく判断力の無い私は、そのことさえ目に入っていませんでした。

「あ、いっぱい待ってる、だめだわ。」
 
 とカイくんが言うまで。
 カイくんのなすがままに、ついていきました。

「向こうの駅のほうでいい?」

 うなづく私。

「こんなにやせてしまって。ごはんちゃんと食べてるか?
 食べないとだめだって。」

「食べれないよ…」

 消え入りそうな私の声。

「食べなよ。」

 本気の心配の声でした。
 カイくんのやさしさが、傷口にしみました。スリキズにつける消毒液のように。
 やさしいけど、痛い。

 カイくんに誘導されながら商店街を歩きました。

「ほんとに、まさかいるとは思わなかった。
 俺、ずっと前向いて歩いてただろ。
 気づかなかったよ。
 心臓止まりそうだった。」

「ずっと、会いたかった。」

 私はカイくんの腕に自分の腕を絡めていました。
 恋人時代、ずっとそうしていたように。

「歩きながらだけど、言っておくとな。」

 そうカイくんが前置きして。

「このあいだ、あきちゃんの親のこと調べたって言ったろ。
 あれ、警察が調べたんじゃないんだ。」

 ちょっとショックでした。でも、真実かどうか。私には疑いの心がありました。

「じゃあ、誰が調べたの?」

「俺の、友だちとか知り合いに、俺が頼んで調べてもらったんだ。
 ネットとかで、いろいろ調べられるの、知ってるでしょ。」

 私はカイくんの顔を見つめたまま。
 カイくんはさらに続けました。

「あきちゃん、何も言わなかっただろ、ご両親のこと。
 挨拶にも行かせてくれないし。
 それでな、俺、頼んで調べてもらったんだよ。」

「じゃあ、警察は何も知らないの? うちの親のこと。」

「知らない。」

「上司に言われたって…」

「言われてないよ。俺が調べてもらっただけ。」

「じゃあ、何が問題だったの?
 警察からは、何も言われてないんでしょ?」

「うちのお母さんがな、もう今はいないお父さんもだけどな、ずっと、うちは公正中立なんだよ。政治的にも、思想的にも。」

 少し、話が核心に触れたようです。
 私は、一言も聞き逃すまいと、一心不乱にカイくんの声に耳を傾けました。

「あきちゃんの親のことがわかってな。
 うちのお母さん、心配したんだよ。
 うちが中立じゃなくなるの。そういうの、嫌いだから。」

「共産党が?」

「共産党も、どこも。」

 本当に?
 お母さんが反対しただけ?
 疑いでいっぱいでした。
 じゃあ、お母さんに反対されたから、カイくんは私との付き合いをあきらめたの?
 あんなに愛してくれてたのに、それを乗り越える努力をしようとも思わずに?
 カイくんの愛はそれほどわずかだった?


 定食屋さんに入りました。
 あとから思うと、カイくんらしいセレクトです。
 前払いだったので、二人分の勘定を払うカイくんのズボンのポケットに、千円札を滑り込ませました。
 食べられないだろうな、と思いながら、小鉢のお皿を取り、ごはんをお盆にのせて席へ。
 全く手をつける気になりませんでした。

 視線はカイくんをとらえたまま。
 というより、他のものが目に入りませんでした。
 カイくんは食べ始めましたが、あまり箸が進まないようでした。
 私はやたらにのどが渇いていて、一口、お茶をすすりました。
 そういえば、カイくんがいれてくれてた、お茶。
 私は放心状態だったので、全く気が回らず。

「ずっと、会いたかったんだよ。」

 カイくんの目を見つめて言いました。
 最大限、愛が伝わるように。
 カイくんは、ただうなづくだけでした。
 微笑んではくれません。
 悲しく、深い川。「あの日」に、できてしまった隔たり。

「調べたって、ほんとにネットで調べられるの?」

 と私。

「うん。よく知らないけど、興信所とか、使ったのかもしれない。」

 友だちが?
 友だちが、そこまでする?

「どうしてカイくんが知らないの?
 頼んだのがカイくんなんでしょう?」

「そうだけど、知らない。」

「じゃあ、友だちに聞いておいて。」

「うん、きいとくよ。」

 うつむいて、カイくんはうなづきました。
 なにか、ある。直感的に思いました。
 やっぱり、隠してる。
 ひとつの推測。
 警察が調査を行ったのは本当。
 上司に「考えろ」と言われたのも本当。
 そして、警察の威信、信頼、体面を損なわないために、カイくんが個人で調査を行った形にされた。そう言えと、カイくんの会社、つまり警察から指示があった。


「どうして、うちの親に会う前に、調べてしまったの?」

 カイくんにいちばん聞きたいことでした。

「あきちゃん、親のこと何も話さなかっただろ。会わせてくれなかったろ。
 何も話さないと、何かあるなと思うだろ。
 だからだよ。」

 つぶやくように言うカイくん。私には、少しすねているようにも聞こえました。

「言ってくれたら、会わせたのに…
 話だって、したよ?」

 カイくんが、本当にそこまで切迫しているなんて、思わなかったから。
 カイくん、明るかったから。
 おねだりされているだけなんだと思っていた。
 そんなに切実な話なら、会わせてた。
 父が元気なときに。

「結婚てのはな、家同士のことなんだよ。
 付き合ってる人がいたら、その人がどんな職業か、親が何してる人か、どんな環境で育ってきたのか、気になるだろ。
 あきちゃんとこの親だって、そうじゃない?」

 これには私は首を傾げました。
 彼氏ができたら言いなさいという類の話をされたことがありませんでした。
 そして、私の思い込みかも知れませんが、うちの親は当人の意思以外を判断材料に持ってくる人間ではありません。
 だから、わたしも結婚を決意するまで言わなかった。逆にいえば、言わずにすむと思っていた。

「うちの親、そんなことで良し悪しを考えないよ。」

「いや、その、良し悪しじゃなくて…」

 そのあとに続く言葉はカイくんの口から出てきませんでした。
 けれど、私は納得しました。「調査」はこの考え方をもとに行われたのだと。警察にしろ、友人にしろ。

「旅行のときもな、俺、挨拶に行くって言っただろ。
 俺があきちゃんを連れて行って、だよ。もし事故とか何かあったら、だよ。
 あきちゃんが怪我したりしたら。
 親御さんにしてみれば、何だこいつって話になるじゃん。
 見ず知らずの男が、あきちゃんを傷つけたって。」

 こんどは諭すような口調のカイくん。
 ふたたび聞いたその話。
 心が、ずきずき痛みました。
 そうか、あの時連れて行ってたら。
 妙な羞恥心、身の丈に合わない父への配慮など持たずに、自分は大人だから何かあったとしても自己責任、なんておごりたかぶりを持たずに、そのことを優先していたら。
 私もカイくんも、ここまで傷つかなかったかもしれない。
 打撃のような後悔に襲われました。

 再び涙が出てきました。
 泣くまいとこらえ、声が震えるのを抑え、言いました。

「そういうこと、あんまり話さなかったから…
 お父さんが、かわいそうだったの。
 精神病院に、入って…
 娘が、いなくなっちゃうんだよ。
 ショックじゃない。言えないよ。」

 ちょっとカイくんが驚いたみたいでした。

「そうだったのか」

「私、そのほうが問題だと思ってた。精神を病んでることのほうが。」

「それなら、早く言ってくれてたら…
 うちな、お父さん亡くなったあと、うちの母さんもな。
 知ってるだろ?
 そういう状態だったこと、あったんだよ。少しおかしいっていうか。
 今は落ち着いてるけどな…
 言ってくれればよかったのに…」

「ごめん」

 私はごめん、と何度もつぶやきました。
 すべての意味を込めてごめんなさい、と。
 親に自分からカイくんの存在を言わなかったこと。
 カイくんに親のことをあまり話さなかったこと。
 カイくんをつらい立場に立たせたこと。
 いままでの自分のおごった高飛車な考え方。
 自分が、こんなにも、周りに頼って助けてもらわなければいけない、小さな存在だということ。大人なんかには、なれていなかった。
 私は、自力で生きているんじゃない、生かされているのだと。

「私、最低だ。子どもとして。」

 ひとしきり、泣きました。
 定食屋で。
 ちらちら、人の視線も感じられるようになりました。
 古い歌謡曲のBGMや、店員さんの「いらっしゃいませ」という大きな声が、いまさらながらに聞き取れるようになりました。
 涙を指でぬぐって。
 気になることがまだありました。

「他には?
 うちの親が党員だということ以外に、何も問題はなかったの?」

 ごはんをつついていたカイくんの動きが少し、止まりました。

「昔、うちの親が何かしたとか。
 罪になることをしたとか。」

 そのあたり、私は本当に心配していました。
 親の昔の話をあまり聞いた事がなかったからです。
 首をふるカイくん。

「ないよ、他には。」

「私に問題があったとか。」

「それもない。」

 ふたたび首をふるカイくん。

「それだけ? 共産党のことだけ?
 それで、結婚できないの?」

「そうだよ。」

「なんでもする、私、努力する。
 できることは、すべてやるから。」

 苦悩の底からの言葉です。
 命だって、捨てる。人生に、何も望まない。カイくん以外は。

「そういうことじゃなんだよ。」

 悲しげにカイくんが言いました。
 私は、必死でした。

「お父さんとお母さんが、共産党抜けても?」

 カイくんがまさか、という笑い方をしました。

「そんなん無理だろ。」

「本当だよ。もうトシだから、無理だって。こないだ、話してたし。」

 先日の見舞いの折でした。もう、抜けてもいいと思ってる、と、父が語りました。

「それでも、だめなんだよ。」

「どうして?」

「うちのお母さんな、公正中立だって、言ってただろ。
 結婚てのは家同士、家族ぐるみの付き合いだから。
 引き入れられると思ってしまうんだよ。そういう思想に。強引に。
 公正中立でないものに染まるのは問題なんだよ。」

 私は強く異を唱えました。

「そんなこと、絶対しない。するわけないよ。」

「警察が言ってるんじゃないんでしょう?
 お母さん個人の気持ちなんでしょう?
 なら、努力で何とかなる。」

「ならない、そういうことにはならない。」

「なんで? どうして?」

「だから、言ってるだろ。そういう思想が、うちに入ってくるのは困る。」

 堂々巡りでした。
 カイくんが箸をおいていました。
 目の前に、カイくんの右手がありました。
 その手に、自分の左手を重ねました。

「カイくんの、一番大事なものは、なに?」

 気を込めて、まっすぐにカイくんの目を見つめて言いました。
 私のこと、愛してくれてるんでしょう? というメッセージとともに。
 カイくんが、途方にくれた子どものような表情になっていました。

「大事なもの…
 俺の気持ち。」

 つぶやくようなこの言葉に少し喜びを感じました。
 カイくんは、私を忘れ去ったわけではない、と。
 けれど、そのあとの言葉は。

「俺は、家族を守らなきゃいけないんだよ。
 お母さんも、おばあちゃんも、お兄ちゃんも、その嫁さんも。
 俺は、あきちゃんより、今の家族をとったっていうことだよ。」

 決定的な言葉でした。
 分が悪いのは私。
 弱々しげなカイくん。
 胸が詰まりました。

「じゃあ、もう私のことは、好きじゃない?」

 私は再び、いやもうすでに、泣いていました。

「そういう話じゃないんだよ、もう。」


 私が泣き止むのを待って、カイくんが「出よう」と立ち上がりました。
 のろのろと立ち上がる私。
 脱力感で、自分の体が支えられません。
 お店の人が気遣ってくれました。

「ご気分悪いの? 休んでいかれたら?」

「いえ、だいじょうぶですから。」

 二人でこの言葉を口にして、外へ出ました。
 足元が、ふらふらしていました。
 二階にあった店から階段を下りながら、グダグダに泣いていました。
 声がもれないように、自分の口を押さえながら。
 しっかりしろ、と自分に言い聞かせました。
 大人だろ、カイくんに迷惑かけるな、と。

「だいじょうぶか」

 とカイくん。
 私は一段進んでは止まり、一段進んでは嗚咽し。

「だいじょうぶか、あきちゃん。」

 私の手を引いてくれるカイくん。
 いつもそうだったように、やさしい。
 一段上から見下ろすカイくんの背中。
 この背中に、幸せを感じていた日々。
 もう、もどらないの? 一生? どんなに努力しても?

 階段を下りきったところで。
 また激しく泣いてしまいました。

「泣くなよ。泣くなって。泣いたらいかん。」

 カイくんが私の頭をぽんぽん、と押さえました。
 私は呼吸を止めるように、嗚咽を飲み込みました。
 カイくんを見上げて。

「な? 泣くなよ。
 泣いたらかわいい顔が台無し。」

 カイくんがそう言って、涙を指でぬぐいました。
 かわいいって、言われた、今。
 あのきつい話の後に、ふうっと、心が溶けました。

                            続く

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